見どころ
5分で楽しむ「アインシュタインLOVE」
日本初公開の、貴重な資料の数々。
ヘブライ大学「アインシュタイン・アーカイブ」から。
エルサレム・ヘブライ大学を主催として行われる日本初のアインシュタイン展、それが 『アインシュタインLOVE』展。
アルバート・アインシュタイン博士が創立を呼びかけ、また、そのすべての遺品を彼が託したヘブライ大学。その「アインシュタイン・アーカイブ」により、展覧会のコンセプト、テキスト、展示品に至るまで、厳密に監修を受けた内容となっています。
「アインシュタインのノーベル物理学賞」
受賞理由は「光電効果」?
1922年11月、日本へ向かうアインシュタインは、その豪華客船「北野丸」の船上で「1921年度ノーベル物理学賞受賞」の電報を受け取りました。受賞の理由は「理論物理学への貢献、とくに光電効果の発見」。すでに学会に発表されていた、先駆的な「相対性理論」に対するものではありませんでした。
今展では、興味深い当時の受賞趣旨をうかがえる賞状と、彼に授与されたノーベル物理賞のメダルを公開いたします。メダルの意匠、ヴェールの中から現れる女神とは何を象徴しているのでしょう?
「青年時代のラブレター」
たくさんの恋をしました。
「恋に落ちるのは、人間の最も愚かしさなんかじゃない。でも、重力のせいでもないんだよ」。
これはアインシュタインの言葉です。彼は生涯を通じてとても筆まめで、母親や友人たちへたくさんの手紙を書きました。その中には多くの情熱的なラブレターも残されています。両親ゆずりの温かな心は、彼を魅力ある青年にしました。今展ではアインシュタインの恋もご紹介します。
"・・・あなたの口から出る言葉を私はどんなに愛しているでしょう。それが自然であればあるほど、素敵です"
(エルザへの手紙の訳:抜粋)
「特殊相対性理論に関する自筆原稿」
アインシュタインの頭を覗いてみよう。
1912年、アインシュタインは、ドイツの物理雑誌から原稿を依頼されました。依頼の内容は、彼が1905年に発表した「特殊相対性理論」についての評論です。これに対して執筆されたのは、「特殊相対性理論」の要約にとどまらぬ、72頁にもわたる原稿でした。本展では、この原稿を大判複製でご紹介いたします。彼が「特殊相対性理論」について述べた最初の原稿であり、現存する唯一の完璧な手書き稿でもあります。
何度も推敲され、訂正された、ていねいな手書きのメモや数式たち。文章は横線で消され、書き直されています。彼の最も有名な方程式「E=mc2」も綴られました。物理に明るい方も、また、そうでない方も、きっと誰もがアインシュタインの生き生きした思考過程をお感じいただける貴重な資料。原稿中の「E=mc2」を、ぜひ、捜してみてください。
本展では、一般相対性理論など、アインシュタイン肉筆の論文原稿を、多数ご紹介いたします。
「映像・音声アーカイブ」
ハロー!アインシュタイン博士!
アインシュタインの肉声や、アメリカ・プリンストンで晩年を過ごす博士の自宅での映像といった、貴重な視聴覚アーカイヴも、本展のみどころのひとつ。ことに、アインシュタインがその肉声で語った、「知識は人に仕えるものなのだ」との趣旨の言葉は、静かに胸を打ちます。
また、プリンストン大学で晩年を過ごす博士と出会った湯川スミ氏(湯川秀樹夫人)は、当展覧会のために、日本を愛したアインシュタインが原爆の悲報に涙したとの様子を語る、貴重なビデオレターの証言を遺しました。(2006年に死去されています)
※視聴覚アーカイブの展示方法は会場により異なる場合がございます。
「鷹部屋福平日記」
日本を探訪したアインシュタインの船旅は?
シビル・エンジニアの鷹部屋福平は、構造力学の世界的な先駆者です。彼は、こんにちの建築技術の布石ともなった、「ラーメン構造新論」「ラーメンターフェルン」などの著書で世界に名を馳せました。
大正12年(1923年)、ドイツに渡航した29歳の彼は、日本を出港した「榛名丸」の船中で、帰国途中のアインシュタインに知己を得ます。そんな彼直筆の当時の日記が、 日本を代表するアインシュタイン研究者・金子務氏(大阪府立大学名誉教授)により国内で発見されました。これによって、44歳のアインシュタインが、榛名丸の船上ですでに「統一場理論」に挑んでいたことが分かりました。
日記によるとアレキサンドリアからベツレヘムに向かったアインシュタイン夫妻は、鷹部屋にドイツの出版社を紹介し、さらに自分の留守宅に届けるよう数冊の書籍と手紙を渡しています。
※「鷹部屋福平日記」は展示のない場合もございます。予めご了承くださいませ。